米沢への道 ~ 越後の龍、上杉謙信 ~
11月18日(日)にネット柿崎で研修旅行があります。
行き先は米沢!
上杉謙信の足跡を辿るツアーを企画していますが、
その前に少しお勉強しましょう!と云う企画。
3連載で謙信、景家をあらためて勉強して見ようではありませんか!
ということで、今日は第1回目「越後の龍、上杉謙信」です。
上杉謙信は、越後守護代「長尾為景(Wikipedia)」の末子として生まれる。
六歳で禅寺、林泉寺に入り名僧「天室光育」から禅と文武を厳しく教え込まれた。
謙信の信義を重んじ神仏を尊ぶ素養はこの幼少期に養われたものです。
そこで柿崎との関わり…
1.林泉寺(Wikipedia)
先の魅力発見ツアーで見てきた、下小野「林泉寺」が元で謙信の親が寺も住職も
墓もすべて春日山に持って行ってしまった、米沢にも「春日山林泉寺(Wikipedia)」が
ある。
2.天室光育
柿崎景家が今の場所、芋ノ島に「天室光育」禅師を招いて建立したのが
我が町の文化の基を築いたあの「楞厳寺」です。
景家公は良く光育禅師を連れて来られたね、大したもんだ!
柿崎からはその甲斐有って、高田藩の学者が何人か出ている。
父の後を継いだ兄、長尾晴景(Wikipedia)は武将としての才能に欠け、
有力な武将は彼に従わず、困った兄晴景は、13歳の謙信を寺から呼び戻し
有力な国人の牽制と、中越地方の所領の確保を命じた。
しかしどっこい、国人は「若輩者に何ができる」と侮った、
だが謙信は翌年長尾氏の元重臣、黒田秀忠(Wikipedia)の反乱を平定し、
一挙に名声を高めた。
ところが弟の名声が高まると兄がヤキモチをやく!
ダメ兄の見本と言ったところかね。
そこで越後守護の上杉定実(Wikipedia)の仲介により兄晴景と父子の義を結び、18歳で
守護代長尾氏を相続した。
これからが謙信の活躍が始まる、謙信は生涯70回戦って一度も敗戦が無い。
言うなれば「戦いの天才」だね、謙信の戦いの哲学は
「戦いは人を助ける為で領地は二の次。短期決戦で一気に攻める。」を基本とした。
その後関東管領、上杉憲政から上杉姓と関東管領職を譲り受け、
それが為に関東を統治することを任ぜられた。
その大儀の為、北条、今川、武田といった武将と戦う事になった。
それと二度の上洛天皇拝見と、まあ~戦いに
天子からのお言葉を頂いた、頭が切れるね!
でもそこまで戦かわないと行けなかったのかな~
お金も掛かった事だろうし、越後上布、佐度金山、米、その当時の越後は
豊かだったのが伺えるね。
それと謙信は生涯独身、そして「義」の人で欲で戦う事は無かった。
ん~カリスマ、天才だね!
川中島の戦いも計5回、その中で最大の激戦が「第四回川中島の戦い」
この辺はネットの研修旅行の際、バスの中での講師M子さんの熱弁に期待しましょう!
そこでよっちゃんは10月13日にK部長と川中島の八幡原、
そして山本勘助の墓を調査してきた。
墓は真田藩が守ってきた。今「風林火山」のおかげで参拝者が多く
我々が行った時も何人かいて、土産物小屋があったり、
語り部のおばちゃんが居たりと長野の人達は商売が上手い!
そして故郷を大切にして語っている。
この辺は我々越後人の課題だね~。
K部長そうだよねえ~!
そこで今回の最後はその山本勘助を「第四次川中島の合戦」で討ち取ったのが、
我が柿崎景家の家臣。墓の前で柿崎から来たとは言えないよね、K部長!
そんな事が有って謙信は49歳で後任者を定めず、春日山城にて脳溢血(のういっけつ)でこの世を去ってしまう。
謙信はこれとなく「酒」を愛した、49歳は武将の役歳だね、お互い気を付けないとね。
この続きは第二部「上杉景勝」編に続きます、よろしくね。
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